歴史について勉強中の書きなぐり
「港町」尾道としてのスタートは1169年、年貢を運び出す港「倉敷地」として朝廷から認められたことです。
時代としては平安時代の終わりごろのこと。
平清盛に代表される平氏の勢力が拡大しており、広島県北部の世羅台地に広がる米どころ、「大田庄」と呼ばれた荘園も清盛の五男である平重衡の領地となっていました。
しかし米どころ「大田庄」の課題が収穫した米を運び出す港「倉敷地」を持っていなかったことであり、そこで白羽の矢が立ったのが尾道だったのです。
「大田庄」の領主は重衡から時の権力者後白河院、そして寺社である高野山へ移っていきますが、その中で尾道は大田庄直轄の港「倉敷地」として公式に認められます。
世羅台地にある大田庄で収穫された米やゴマはまず陸路で御調を経て尾道に運びこまれた後、高野山の港である紀伊湊(現在の和歌山県和歌山市)へ海路で運ばれて行きました。
このころ尾道の様子は今とずいぶん異なっており、現在の本通商店街のあたりまで海が迫り、ロープウェイ乗り場近くの長江と尾道市立中央図書館近くの坊地には深い入り江がありました。発掘調査で出土した遺物などから、このころは浄土寺及び西国寺が近い坊地口周辺が尾道の中心地となっていたと推測されています。
まず年貢米を運び出す港としてスタートした「港町尾道」。
ただ、一つ気になっているのは、尾道三山といわれる浄土寺、西国寺、千光寺はどれも開港以前に開山されていること。
浄土寺は616年に聖徳太子が、西国寺は729年ごろに行基が、千光寺は806年に弘法大使がと、名だたる方々が関わって開山しています。
尾道最古の神社といわれる艮神社も千光寺と同じ800年前後の建立といわれます。
また、901年には大宰府に左遷される途中の菅原道真公も尾道に立ち寄ったと伝えられ、これが映画「転校生」の舞台にもなった御袖天満宮の由来とされています。
浄土寺創建時の伝承から616年以前から小さな漁村はあったとされていますが、港町として経済的にも発展していくのは1169年以降のはずです。
なぜそのような土地にこれだけの寺院、神社が建立されたのでしょうか?
不確かな情報ではありますが、尾道水道を挟んだ向島にある岩屋山が仏教伝来以前の「古代巨石信仰」の聖地であったのではないかという説があります。
尾道から向島にわたる尾道大橋のわきにそびえる岩屋山の山頂には人の手が加えられたとみられる巨石群があり、巨大な岩の割れ目の東側から夏至の太陽が昇り、西側に冬至の太陽が沈むように作られているそうです。
尾道三山のご本尊は全てこの岩屋山山頂を向いており、特に千光寺は岩屋山山頂から昇る冬至の朝日がご本尊を照らすようにあの断崖絶壁に作られているとか。
古来より信仰の地であったからこそ、開港以前から大きな寺院が建立され有力者も立ち寄る地となっていたのでしょうか。
「古代巨石信仰の聖地」から「飛鳥、奈良、平安時代での尾道三山の開山」をへて「平安時代末期に年貢米の出荷港」へ。
もっと簡単にまとめられるかと思っていましたが、港町としてのスタートラインに立つまででかなりのボリュームになってしまいますね💦
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